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今回の研究で私達が見てきた、開発計画の中の交通整備とはどのようなものであったのだろうか。戦後の混乱期から復興した日本を一人前そしてそれ以上に育て上げるための国土の「一致団結」の屋台骨として交通整備の充実は進められたのであった。1960年代から策定され、実行に移されていった全国総合開発計画は、その頃挙行された東京オリンピックの如く日の昇るような日本経済を象徴するような計画であった。日本を一つに結ぶ壮大な交通計画の達成は、そう遠くないように思われた。
その超長期に渡る計画も、経済成長が絶頂に達するにつれ、特に交通計画で配分の恩恵に預かれないところとそうでないところが出るようになった。言い換えれば、総合開発で国土を総合的に開発するはずのものが、一極への集中をもたらしたわけである。無論、集中することのメリットはあるし、市場原理から言えば自然なことであったと考えられている。ただ、そうして生み出された、過疎や過密といった著しい不均等は、その後の計画で補正されただろうか。現在の状況を見る限り、補正されたとは言い難いであろう。
「一極」となった東京と、東京に追いつこうとする地方の思惑の違いは、私達にも捉えきれないものであった。一極集中への肯定と否定が入り交じる。地方の「開発」とは何か、住民の望むものは何か。地域エゴと称されるものがどういったものなのか。開発という行為の本質をもっと把握しなければ、有効な交通計画はなしえないはずである。
ただ、交通開発計画のアウトラインが、全て地域住民不在で策定されている点については、おおいに議論がなされるべきであろう。計画に影響を与える地方の「声」の実体は、不透明である。国鉄末期の時代、住民が小旗を振って歓迎した地方ローカル線群の存在が、それを示すものである。この教訓は、新幹線網整備や高速道路建設や、空港の建設に活かされているのだろうか。建設後にそれらの施設が有効に活用されるような合意構成のあり方についても、更なる検討が今後望まれるだろう。
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Last modified: 2008/9/26
一橋大学鉄道研究会 ikkyotekken@yahoo.co.jp