この文書に関する一切の権利は一橋大学鉄道研究会が保有します。 無断複製・転載を禁じます。
総論として、資源の効率的運用を目指すための合理化策には、本来何の異論もないはずである。 それは新聞でもよく見受けられる論調である。 機械化やワンマン化といった施策にはまだ改善の余地があるものの、それ自身に特に反対する人は少ない。 この段階では合理化を論じるのはきわめて単純な問題である。 それは大きな不利益を被る人がいないか、いても表面化しないからである。 一方、第二部において整備新幹線や国鉄債務がJRの経営を圧迫していることや、 戦後の一極集中がローカル線の問題に大きな影を落としていることを考えれば、今回のテーマは戦後の政策の問題であるようにも見える。 そして、そのしわ寄せが地方の人々に来ているとなれば、責任の在処がはっきりすることに伴って非難する相手、 そして守るべき相手も決まって、一つの結論が出たと考えられるかもしれない。
「合理化は賛成」という見方と「悪いのは中央で、沿線住民は被害者である」 という見方で全てが語れるような雰囲気を頭ごなしに否定するのは良くない。 しかし、そのような論調で本当に全てが実際に解決するのだろうか、というのが今回のテーマを扱った動機でもあった。 そのように考える第一の点は、合理化が誰かに不利益をもたらす局面になったときにどうするのかということである。 合理化に伴って解雇された人々に対して「仕方ない。それが時代の流れである。」と何のためらいもなくいうことができるだろうか。 そのような展開を無意識に無視して合理化に賛成することは、結局無意味なことではないだろうか。
もう一点は、責任が中央にあったとしても、それだけのことで合理化に反対できるだけの正当な理由はないことである。 たとえ多くの判断ミスなどが中央にあったとしても、それが廃線を妨げる永遠の免罪符とはなり得ない。 相手のミスにつけ込んで、そのことについていつまでもこだわっていても状況の解決にはならない。 現に赤字は累積していて、いずれ誰かが解決策を明示しなければならない。 そして、その解決案をもちろん修正する部分もあると思うが、最終的には受け入れる必要がある。 廃線に反対する一方で、存続できるような路線のあり方についても何の考えもでてこない現状は、 ただ否定的な色合いがでているだけで将来についての前向きな発想とはほど遠いのである。 第三部はこのようなことについて深く考察した。
鉄道が存在することには大きな可能性がある。 特に鉄道の公共性に注目するとき、その存在価値は非常に高いものである。 しかし一方で鉄道会社にとっては、採算が取れないばかりか大きな赤字を出すような路線は、 廃止も含めた合理化を図らなくてはならないのも確かである。 それでも鉄道という公共交通手段を残すのが最善であると判断されたとき、利用者負担の大幅な増加が予想される。 例えば第3セクターという形で存続させるなら、資本金に税金が投入されることもありえる。 また当然運賃も高くなるだろう。その地域にどうしても必要なものであるなら、利用者もある程度の譲歩が必要である。 それは鉄道会社側にも言えることである。 経営上どうしても鉄道を廃止せざるをえないとき、替わりにバスを運行させる計画があるのなら、 鉄道廃止に先行して運行させるぐらいの積極性を見せなければ、利用者は納得しないだろう。 このように鉄道の公共性と企業としての合理性のジレンマは、 鉄道会社と利用者が互いに譲歩することで次善的に解決していくしかない問題であろう。 非常に月並みな結論かもしれないが、現状は果たしてそれが守られているといえるのか。 それぞれがもう一度考えるべきであろう。
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Last modified:2008/9/23
一橋大学鉄道研究会 ikkyotekken@yahoo.co.jp