この文書に関する一切の権利は一橋大学鉄道研究会が保有します。 無断複製・転載を禁じます。
大都市では列車の運行本数も多く、目的地へのアプローチは非常に楽である。 しかし、地方ではモータリゼーションの中で多くの路線において鉄道の乗車率が激減、 特に炭鉱都市においては石炭から石油へのエネルギー転換によって列車の利用がなくなっている。 このような根本的な輸送需要の低下という事態に対し、経営を行っているJRや私鉄は路線の縮小や廃止という選択肢をとることもある。 ここではそのような状況について企業側と利用者側の双方について考える。
ローカル線を多く抱えているのはJRである。 ローカル線は利用客が少ないため赤字であり、その問題は解決が急務である。 この中で今回は広島県の可部線について取り上げる。
可部線は可部駅を境に北の三段峡駅までは非電化区間であり、南の横川までは電化区間である。 97年度試算によると非電化区間では収入1.4億円に対し経費が7.4億円。 一方電化区間では収入15億円にたいして経費が20億円となっている。 どちらも大幅な赤字なのだがJR西日本は都市につながる電化区間には将来性が見込めるが 非電化区間にはそれが望めないとして三段峡〜可部の非電化区間を廃止にする計画である。
しかし、可部町には高校があるため通学に可部線を利用する高校生もいるなど生活路線の色合いは強く、廃止に反対する声が聞かれる。 そもそも沿線には一つの路線を二つに分けて処理すると言うことについて理解に苦しむという見方が強く、 絶対的な赤字額では同じような状況である2つの区間で対処が分かれることに地域は反発している。
一方営業係数という「合理的」な指標を基準にしているJRとしてはどのような基準で廃止を考えるべきか当惑気味である。 経営の効率化を目指すJRにとっては「まず赤字削減ありき」である以上、路線の一部区間廃止などについても特に「聖域化」する必要はないのである。
JR東日本も多くのローカル線を抱えている中で、今後ローカル線の縮小の基準をどのようなところにおくべきかが焦点であり、 大いに議論されるべき点である。
近鉄・名鉄など営業距離の長い私鉄では、輸送密度の低い路線を多く保有していて、JRと本質的に似た構造となっている。 これらの会社もローカル線の処置について頭を悩ませている。 ここでは近鉄北勢線についてふれてみる。
近鉄北勢線は三重県北部を走る西桑名・阿下喜間20.4キロの路線であるが、 グループ全体の赤字解消に向けた合理化策の一環として廃止の候補に挙がっている。 具体的な廃止の時期は固まっていないが、近鉄は沿線の桑名市などの地方自治体に自らの意向を伝え、代替の交通機関の検討を始めるものと思われる。
この路線は1914年に開業した旧北勢軽便鉄道が前身のローカル鉄道である。 その後事業統合を得て、65年に近鉄の路線として合併された。利用者の8割を通学者が占めるが、 少子化による客数減少の影響を受けて、現在約7億円の赤字を抱えている。 それに加えてこの路線は特殊狭軌と呼ばれる幅が狭い線路であるため他の路線で使った車両を再活用することもできず、 車両の老朽化という問題にも突き当たっている。 近鉄側としては「車両更新に膨大な投資が必要になるが、客の増加見通しもなく、 現在のままで維持はできない」としてグループ経営改善計画で事業廃止の支線に位置づけられた。
鉄道事業法では、路線廃止の手続きは許可制ではなく運輸省への届け出を行って一年以内にできる。 今後、地元自治体が設ける対策協議会と近鉄の双方によってバス化や第三セクター化などを検討する。
近鉄は景気低迷の影響を受けて2000年3月期の連結決算では約45億の最終赤字を計上した。 経営改善計画では関西圏への経営資源の集約を進めていて、 これまでも愛知・岐阜県といった近鉄にとって手薄となる地域ではグループ子会社の百貨店やホテル事業などの撤退を進めてきた。
大都市を走る大手私鉄は、戦後の大都市への人口集中を追い風にして順調に経営を拡大してきた。 それはまさに右肩上がりの経済にふさわしいモデルであった。 しかし、そのような時代の終焉を迎えるとともに企業側は公共性よりも自らの収益性を重視し、厳しく鉄道を経営資源として選抜している。 この中でローカル線がどれだけ生き残れるのか。 たとえ大手私鉄の保有であったとしても予断を全く許さない状況となっている。
国鉄末期に多くの赤字ローカル線が廃止もしくは第三セクターに転換されたが、転換後の路線の状況はまちまちである。 黒字転換のめどがついたところもあれば、苦戦しているところもある。 ここではその中でも転換後に成功し、一時第三セクターの一つの見本となった長崎県の松浦鉄道を取り上げる。
松浦鉄道は有田と佐世保を伊万里・平戸口経由で結び、佐賀・長崎両県にまたがる93.8キロの路線で、 前身のJR松浦線は昭和20年に全通し、北松浦半島をあるときは海岸線に忠実に、ある時は谷間へ分け入って町々をこまめに結んで、 北松地域の足として、又この地域で隆盛を極めた石炭の搬路として機能した。 しかし、昭和30年代に入る頃から沿線の石炭産業にかげりが見え始め、36年ごろには炭坑が枯渇した。 それに伴い、それまで松浦線の中軸だった貨物列車も37年に廃止されている。 続いて40年代には松浦線から枝分かれしていた運炭支線の柚木線・臼ノ浦線・世知原線がそれぞれ廃線になった。 石炭の枯渇とともに沿線人口も減少を余儀なくされた。 並行して進められた道路改良と自家用車の普及が追い打ちをかけ、昭和50年代の乗車人数の減少率はさらに大きなものになった。
昭和57年、松浦線はいわゆる国鉄再建法の中で第二次特定地方交通線に選定された。 輸送密度は1741で、全長は94キロ余と長いものの全線にわたって代替道路があるということで、 九州では山野・宮之城線などとともに第二次線区となったものである。 その後は利用補助、イベントなどを主軸にした存続運動が展開された。 しかし、地元の盛り上がりは今ひとつで運動の実効性は薄かった。
昭和60年7月25日に第一回協議会が開催され、その後はバス転換がかなりの現実味をもって検討された。 しかし結局途中3回の協議会を経て約1年8ヶ月後の昭和62年3月26日、第五回協議会で第三セクターへの転換が決定され、線路自身は残ることになった。 九州の第二次線では初の第三セクター化であった。 正式な決定は同年11月11日の第六回協議会の場となり、12月10日に松浦鉄道株式会社が設立された。
その後松浦鉄道は駅数を増やし、回数券の種類を増やすなど独自の手法で利便性の向上に努め、黒字転換を果たした。 ローカル線といえば赤字という言葉が付き物であっただけにこのことは話題となった。
第三セクター路線は危うく廃線を免れたという程度の路線が多く輸送密度は決して高くない。 この中で松浦鉄道は数少ない成功例であり、それはひとえに営業努力によるものである。 しかしこの例のみをもって営業努力でローカル線は黒字にできるというのは無理である。 第三セクター路線は赤字の方が多い。 それも営業努力云々の問題ではなく、沿線の状況が既に鉄道を特に必要としなくなっているところもある。 第三セクターの運命は最終的には周囲の環境に委ねられているというのが実情である。
経営者にとって赤字路線はやはり廃止するのが一番楽なようであるが、沿線住民の中には反対運動を行っている人も多い。 その主な論拠としては、「鉄道はスピードが速い」「乗りやすい」「時間が正確」「バスの方が運賃が高い」といったものに加え 「環境に優しい」といったことも聞かれる。 やはり住民にとって鉄道は生活の一部として定着しておりそれを失うことは大変な不利益を被ることになるだろう。 一方で過疎化の進む町を走るローカル線にとって抜本的な経営改善の手段があるわけでなく、 存続のために経営赤字を税金によって埋める状況が続いている。今後いつまでもこのことを続けることは許されるのか、許されないとすればいつ、どのようにこの状況を変えていくべきか。 どちらにせよこのことについて真剣に考えなければならない時期が近づいていることは確かである。
この文書に関する一切の権利は一橋大学鉄道研究会が保有します。 無断複製・転載を禁じます。
Last modified:2008/9/23
一橋大学鉄道研究会 ikkyotekken@yahoo.co.jp