この「完乗座談会」は、 如水鉄路クラブ(一橋大学鉄道研究会のOB会)の会報『たまこせん』第五号(1996年) に掲載されたものです。 html化にあたっては、お名前のイニシャル化、誤字修正、表記の統一などを行いましたが、 基本的には原文のままです。 したがって、登場なさる方々の肩書きは1996年当時のものです。ご注意下さい。
『きゅうろく』、『LOCOMOTIVE』は一橋大学鉄道研究会の部内誌です。
html 作成 所 浩之
鉄道趣味といえば、長らく写真の撮影や模型の運転などを指すのが普通であった。 鉄道趣味発祥の国、イギリスでも同様であっただろう。 しかし、昭和40年代から、 ひたすら乗車キロをかせぎ、全線乗車(完乗)を目指すという人たちがあらわれた。 現在では撮影派、模型派と並んで乗りつぶし派等と呼ばれたりしている。
この乗りつぶしという行動が知られるようになったきっかけは 鉄道作家・宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」という本であろう。 全国の国鉄のローカル線を乗りつぶす様子をユーモラスに描いたこの本に触発されて 完乗を志した人は少なくない。 そして、乗りつぶしが爆発的に広がったのは、 なんといっても国鉄末期の「チャレンジ20000km」キャンペーンの影響である。 国鉄自ら「本源的需要」による乗車を認めたことで 子供までも乗りつぶしを始めるようになった(筆者もその一人といえる)。 現在では国鉄・JRを完乗した人は3千人は越えそうである。
当鉄研に於いて、乗りつぶし派の歴史が始まるのは K.T、T.O両氏が入部されてからである。 当時はほんの数人しか国鉄全線乗車を達成しておらず、 「極めて個人的な営み」であったという。 以後、この「輝かしい歴史」を継承すべく、 当鉄研においては二十数名の完乗者を輩出した。
完乗者リストを跳めると、 まず鉄研の黄金時代と呼ばれるM.O氏を中心とした80年前後に 多くの完乗者が誕生している。 当時の『きゅうろく』などには、部員の乗車割合の一覧表が掲載されており、 否応なしに自分の乗車行動が認識され、刺激されたとも考えることができる。
そして最近も完乗者が増えている。 このことは『LOCOMOTIVE第23号』から始まった 全部員を対象とする「乗車キロランキング」に影響された結果といえよう。 部員の乗車キロを調査し、 鉄度(「鉄」しか乗らない深名線のような線区に乗るとポイントが加算される) を含めたランキングに、現在も部員は一憂一喜している。
また、完乗を達成した際は、 出迎えてくれた部員にご馳走するというのが伝統になっている。 これは他の鉄研などにはない慣例のようである。
当初は何人かのOBにお集まり頂いて、 それをテープに録音して掲載しようと考えていたら、 発足したばかりの鉄研メーリングリスト (ML。電子メールをtekken-ml宛に送ると OB・現役部員の加入者に同じメールが届く、いわば仮想部室) 上でやろうというT.O先輩の提案があり、 今年の5月から7月にかけて電子メールによる座談会が行なわれました。 その座談会の記録はほぼ原文のまま掲載しましたが、 話の順序にあわせて並び替えたり不要な部分を削除したりしました。 どうかご理解ください。
Y4@完乗座談会司会者(経済学部4年)です。
ようやくM.OさんがMLに加入されました!ので、 早速ですが、完乗座談会を始めようと思います。 尚、当面はtekken-ml上で行ないますが、 御希望が多ければ別のMLを立ちあげようと思います。
まず質問します。国鉄全線乗車を始めたきっかけを教えて下さい。 このあたりから議論を始めたいと思います。
生まれも育ちも横浜で、親戚も東京、神奈川にしかいない環境で、 中学の修学旅行で奈良、京都に行った以外は、 乗車区間は南関東に限定されていました。 高校入学以来、意識して身近な未乗区間に足を延ばすことを始め、 本格的に国鉄線全線走破を決意したのは、 高校2年の秋の九州方面への修学旅行から戻った、66年10月です。 修学旅行は、横浜から小郡まで「桜島」のスジを使った臨時列車で、 車両運用の都合か、広島〜小郡間(既に電化されていた)はC62の牽引。 秋吉台から九州各地はバスで回りましたが、 自由時間に駅まででかけて入場券を買ったり、 熊本〜上熊本間を一駅間だけ乗車したりして楽しんでいました。
そのころから毎日の乗車区間をノートに記録するという作業を始め、 受験勉強の時間がこの作業に取られていました。 大学に入学したら自由に鉄道で全国を旅行できるという希望が、 この時期の生活の一つのバネになっていました。
入学して迷わず鉄研に入ったら、 同様に全線乗車を目指しているK.Tに出会いました。
国鉄全線乗車を始めたきっかけですか…
今となっては、そのきっかけらしきものが暖昧で、よく分かりません。 ただ、小さい頃、毎日新聞日曜版に「日本の鉄道」という連載ものがあって、 それに関心を寄せてしまい、 いつかは行ってみたいと思ったところが出発点だったのでしょうか。(^^;
次に、中学に進んだ年の10月に八高線から蒸気機関車が消え、 今の内に記録しなくてはと、 特に高校生になってから全国各地に蒸機を追っかけたことも、 全線乗車の要因だったかもしれません。 高校3年の年は、広島力ープの初優勝と、国鉄線最後の蒸機で、 もうたいへんだったので、受験どころではなかったのかもしれません。
そんなわけで、蒸機末期はとんでもないローカル線に、 C11やら9600が動いていたありさまで、 こんな線を訪ねていれば、いやでも乗車キロは延びてしまいます。 鉄研に入会しI先輩にどのくらい乗っているか計算してみよ、 と言われたのでやってみたら、すでに1万2千キロあったようでした。 これで、2万キロ乗れなかったら、恥であるような雰囲気になってしまい、 しかも後続の連中に負けるのもシャクであると、 一気に走ったというところでしょうか。
おかげで、毎日新聞「日本の鉄道」は、 自分で検証することができたのですが、 そこの写真にあった混合列車や機械式気動車、社形電車にはとうとう乗れずじまいで、 たいへん残念な思いをしました。 あと10年早く生まれていればと、思ったこともありました。 でも、そうしたら、きっとT.O先輩やK.T先輩と張り合っていたでしょう。 …と、こんなものでいかがでしょうか。
(正確には)完乗座談会には参加できないんですが、発言しておきます。
チャレンジ20000kmには、確かに触発されたような気がするのですが、 なにしろJR線上で地の果てに高校卒業まで住んでいたので、 その気力は一瞬にして失せてしまいました。 JR全線乗車を目指したのは、大学鉄研に入ってから影響を受けた、と言うのが実情です。
残り1線区(山口線小郡〜三谷間)ですけど、 宮崎空港にも行かなければ、といった状況です。 帰省の途中で寄り道、という範囲ですけど。
M2氏日く、
> だからー。鉄研に入ってからJR線乗りつぶしに影響を受ける
> までの期間がものすごく短かったんです(たぶん1月かからな
> かったくらい)。
そうでした。 たしか前年度のロコモティブとかを読んですごいなあって思って、 新歓合宿の時、会津若松なんて場所を提案したのでした。 その時僕は只見線を完乗しています。 西若松で降りて城を見に行ったのにわざわざ西若松〜会津若松を乗りに戻ったのです。 会津鉄道のDCに乗れるかも知れないという秘かな期待もあったのですが。
その時既にM2君は全国の鉄道地図を買い込んで乗り潰し一覧マップにしていましたよね? 完乗した皆さんはどうやって完乗状況を把握したのですか? 以前は今とは違って路線数も多かったわけですし。
では、当時の乗りつぶし事情についてお伺いします。 いまでこそ、18切符とか周遊券とか便利になりましたが、 切符の手配などでの苦労はありましたか。 また、旅行中の食事とか、宿とかはどうしていたのでしょうか。 夜行列車も今とは比べ物にならないほど混んでいたと言われますが、どうでしたか。
当時「青春18切符」や JR東日本の「ウイークエンドフリーきっぷ」はありませんでした。 もっともよく利用したのが「均一周遊券」(現在のワイド周遊券)で、 乗りつぶし旅行のメインは、 均一周遊券を利用した夏休みと春休みのブロック毎の乗りつぶし旅行でした。 自由周遊区間内の夜行列車を宿泊に活用し、 通用期間を目一杯利用するのがこの旅行の特徴で、 通用期間をのばす手段として、 長野発の東北周遊券などを使ったこともあります。
均一周遊券でカバーされない路線は、 駅員や並んでいる人の白い目に耐えて購入した回遊の普通乗車券を使って出かけました。 この種の旅行では、もっぱら昼行の普通列車を利用して、 途中下車を繰り返していました。 当時青春18切符や、各地のホリデーパス、フリーパスなどがあったら、 少なくとも切符を購入する手間がはぶける分だけは、便利だったと思います。 宿でよく利用したのは、各地の国立大学の寮で、 北は岩見沢の北海道教育大学岩見沢分校から南は鹿児島大学までよく利用しました。 大学3年から4年にかけての春休みの九州旅行では、 箱崎駅の近くにある九州大学の寮に連泊し、 毎日ここから北九州地区の乗りつぶしに通勤するというようなこともしました。
さて、切符と宿のことですか。 私に関しては、均一周遊券と回遊乗車券が主力であったので、 T.Oさんとほぼ同じでしょう。 これに盲腸線の終点と終点を結ぶバス路線があれば、 周遊乗車券として加えることもよくやりました。 それに、途中経路で別途片道という乗車券をよくつくりました。 帰りはどうしたかって? 私は潔白です。
宿は、ユースホステルと駅前商人宿 (もうすこしすると、ビジネスホテルとか改称したみたい)を多く泊まりました。 けれども、それは2〜4泊に1回程度で、 後は駅ネかミッドナイト・ターンバックでした。 それは、大学紛争後の管理強化の波で、 大学寮に部外者の立ち入りが厳しくなったこともあって、 幸い夜行急行や普通列車が多数あったからできたことでした。 結局、ユースは駅から遠いのと、早朝出発で暗くなってからの到着は迷惑がられたので、 だんだん遠ざかってしまいました。 ただ、駅前商人宿に泊まるほど裕福では無かったので、結論は見えていますネ。
思えば、旭川・名寄・長万部・新庄・盛岡・山形・福島・ 木曽福島・和田山・金沢・江津・熊本・八代・大分・鳥栖とか、イイ駅でした。 もっとも、こういう駅でずっと夜を明かしたのではなく、 例えば京都を「山陰」号で和田山まで行って、 上りの同列車を捕まえて京都に戻るなんていう手法でした。 なぜって、車内の方が暖かくて、酔っぱらいはいないし、 車掌さんに言えば席を探して(横になっている人を座らせる)くれるからです。 とても今でできるか、気分と体力次第でしょう。
昭和50年代はすでにワイド・ミニが出そろっていたので、 ほとんど周遊券を使いました。 ワイド周遊券でも特急には乗れませんでしたが、 急行が数多く走っていたので特に不便は感じませんでした。 長距離で普通乗車券を使ったといえば、 新潟の赤谷線・弥彦線・越後線を乗りつぶした時ぐらいのものですか (当時は新潟・弥彦ミニがなかった)。 魚沼線は信州ワイドで飯山線経由のアプローチの途中に制覇しました。
急行の自由席乗車を原則としていましたので、 指定券手配の苦労も関係なかったですね。 同一列車の自由席に長距離乗車(特に夜行急行)の場合は 原則として始発駅から乗車するように日程を組み、 また、いかに空いている列車を探すかというのも「鉄」の腕の見せどころでしょう。
高いといって敬遠する人がいましたが、私は駅弁大好き人間です(今でも)。 立ち食いそばかKIOSKでパンと牛乳ばかりというのは侘びしい気がするし。 また、ラベルを手元に残せるというのがいいですね。 先日数えてみたら、軽く200枚を越えていました。 駅名と製造年月日のスタンプが記憶の糸口になってくれるという効用もありますし。
車中泊(もちろん自由席)とYHを交互に入れるのを原則とし、 最大でも車中泊は連続2泊までと決めていました。 昭和53年夏の北海道旅行を例にとれば、八甲田(上野〜青森)、 滝川夜行(函館〜小沢)、ウトナイYH、狩勝53号(札幌〜帯広)、 からまつ(帯広〜砂川)、旭川YH、利尻(稚内〜岩見沢)、 札幌ハウスYH、大雪5号(札幌〜遠経)、留辺蘂YH、 利尻(旭川〜稚内)、稚内YH(鉄研夏旅行集合場所)…以下略、といった具合です。 健康管理の面もありますが、最大の理由は車内でのエチケット。 臭い人間は他の乗客の迷惑ですからね。
次の話題として、
完乗といっても、国鉄、JRに限るというのと、 民鉄も含めるというのと大きくわけて2つあると思います。 また、渡り線や貨物線の扱いをどうするのか、 ケーブルカーに乗るのかという基準がいろいろあるのではないでしょうか。 また、寝て乗った線は含めないとか、鈍行でなくてはダメとかいう基準もあると思います。
M.Oさんが矢川駅前で出迎えた鉄研部員に 焼肉をおごったという話しは聞いていますが、 T.Oさんのころはどうだったのでしょうか。 いつからはじまったのでしょうか。 ちなみに、現在でもこの習慣は続いており、 最近では4年のM4君が武蔵五日市で完乗した際、 秋川でバーベキューパーティーが開催されました。 もちろん、M4君のおごりです。
完乗して良かったことや、白い目で見られたことなどがありましたか。 また、マスコミからの取材はありましたか。その反響は如何。
自分自身、かなり甘く設定したと思っています。具体的には、
「要は、良心の呵責に悩まない程度に、楽に達成できるよう基準を設定しただけです」 と言い切ってしまってもいいかもしれない(ちょっと弱気)。
「おごる」というよりは、「たかる」人間の存在の有無によるのではないですか? ま、実際問題として、集中豪雨の影響で各地に不通区間が出ているにもかかわらず、 はるばる三原駅までやってきた連中がいるのに、 「万歳三唱、じゃあね」では済ませられないでしょう。
考えたことありません。 ただ、社内では「鉄」であることをPRしない(もしくは隠す)という安全策はとりました。 しかしその一方、社内誌の表紙にC623の写真を投稿して採用されてしまったという、 分裂症気味のところもありますが。 座談会というよりは、アンケートに答えているような気分です。
★完乗基準について
まだ完乗していない身(現在JR乗車率98.75%)ですが、 ちょっと人とは変わっているので、紹介したいと思います。
こんなところですかね。もう1・2あったような気がするのですが、思い出せません。
今日、5日ぶりに大学に来てメールをあけたら、 このML関係のメールが23通も来ていてびっくりしました。 これを読むだけで日が暮れるという、私は悪い大学教師です。
今回はとりあえずこれだけ。質問等お待ちしております。
何を話しましょうか
参加する経緯は、 T.Oさん、K.Tさんとたまたま倉敷でお会いする機会があった時に、 T.Oさんに紹介されたということで、 あまりよく知らないままに今日に至っています。
それでは、取りあえず質問にお答えすることにして。
> #M.Sさんへ 上野動物園のモノレールは乗車対象なのでしょうか?
前回は「基準」のみ送信したので、今回は解説したいと思います。 でもこれから教授会が…。 お尋ねの件は、基準の4.にかかわる件ですね。すなわち:
> 4.特定の公園・施設内のみを走る鉄道は、 経営形態にかかわらず乗車対象外とする。
というものです。 実は、これは一重に「上野動物園モノレール」を外すための規定です。 現時点で、私はまだ乗っていません。時間がないので、とりあえず。
私も一応完乗者なので完乗の基準とやらを述べなければいけないのでしょうが、 基本的に鉄研規格と同じ(?)です。 すなわち『LOCOMOTIVE』のJR乗車キロランキングに該当する範囲で、ということです。 ですから貨物線なんかは当然乗っていません。 ただ問題となりそうな貨物線や短絡線については出来る限り 「定期列車が走っている路線は全て乗る」ようにしました。 多分現在でもこの条件ならほぼ満たしていると思います。
でも良く考えたら結構穴はありそうですね。 例えば、私は成田エキスプレスに東京以東しか乗っておらず、 一方新宿からスーパービュー踊り子に乗ったことがあるのですが、 こういう場合山手貨物線は完乗になるんですかね。 他に問題となりそうなのは、鉄研規格だと四国の宇多津のデルタ線とかはどうなのでしょうか。 私は一応3方向全て乗っておきましたが。 JTBの時刻表の索引地図なんかを基準にしている人にとっては、 解釈が難しいところでしょう。
ちなみに民鉄完乗についての私の基準。 普通の鉄道・地下鉄線、路面電車をはじめとして、 モノレールや新交通システムも含む。 ただしケーブルカーやロープウェイは含まない。 よくわかんない基準ですが、一番分かり易いのは、 大型時刻表に時刻が載っているもの、という事になります。 でも実はそれ以外のファジーな要因もあって、 例えばモノレールに関しては上野動物園のモノレールは含まれ、 小山遊園地のモノレールはのぞくことになります。 理由は、どちらも遊園地などの施設内の乗り物なのですが、 上野の場合は事業者が東京都交通局だから。全然理由になってませんね。
前回提示した「基準」の解説(弁解)をします。
1.はいいですよね。 「鉄道」にはモノレールや新交通システムも含みます。 「航路」に関しては、現時点では宮島航路だけですし、 かつての青函・宇高は特に意識しなくても乗れましたし。 ただJR九州がやっていた(今もやっていたっけ?)韓国行きの船などは対象外です。
2.も問題ないですよね。
3.に関しては、山手貨物線のようなケースを排除する基準です。 山手貨物線経由の列車が走っても、 他の線区の延長や廃止に結び付いていませんから、 これは対象外です(もちろん、機会あれば乗りたいのですが)。 乗車対象になるのは、この前の鶴見線の武蔵白石駅構内の渡り線のようなケースで、 あれによって大川支線の区間が武蔵白石〜大川から安善〜大川に変更されたため、 私はクモハ12もいなくなった同支線に乗って来ました。
4.については、先程の質問に答える形で言ったとおり、 上野公園モノレール(の様なケース)を排除するためのものです。 鹿児島線の小倉〜門司港間に初乗りしたのはある夏の夜だったのですが、 車窓から関門海峡に上がる花火がとても印象的でした。 だから(と言うわけでもありませんが)、 昼に乗ろうが夜に乗ろうが乗ったということに変わりはないと思っています。
その他夜行で寝ていようが、特急で通過しようが、 だからダメとまで私はしていません。 余談ですが、私は日中線が走っていた頃うっかりして「乗り忘れて」いたことがあり、 廃止後それがずっと心残りでした。 そこで日中線の「廃線跡」を全線歩き通し、 これを「乗車」区間に含めています。 まあ、死んだ人に勲章をあげるような話ですが。
6.今だと大系線の扱いですよね。 私の完乗時にこの様なケースがなかったのでこの様な基準にしたのかもしれません。 ただ私も、山陰旅行中三江線の浜原〜口羽間が車両故障で不通になり、 その時は代行バスに乗りましたが、その後もう一度乗り直しました。 なお、但し書きは、(災害ではありませんが) 旧国鉄士幌線の糠平〜十勝三股間の様なケースが念頭にあります。
「完乗パーティー」は敦賀で私もやりました。 ついでに、JR全線完乗記念のオレカも作って鉄研のメンバーに配りました。 私は「鉄」であることがそのままアイデンティティーであったような人間でしたから(今も!?) それを「隠す」というような高等才能はありませんでした。 完乗時にマスコミが来るなどという派手なことはありませんでしたが、 それでも全線完乗が「鉄」としての自分の、一つの転機だった様な気がします。 当時の私の考えは、鉄研にも残してきた 「Marsの全線乗りつぶ史」という「本」に書いてあります。 あれを書けたことが、完乗して一番良かったことかもしれません。
送っていただいた『LOCOMOTIVE』でY4さんの最長片道切符旅行記を読みました。 Y4さんのE-mailのシグニチュアには 「ただいま執筆中」となっていますが、 旅行記の初めの方はもう発表されていたのですね。 最長切符旅行は鉄研では初めてではないですか。 初めて最長片道切符旅行をした東大旅研のグループのことがY4さんの原稿に出ていましたが、 私は高校1年の時学校の図書館から借りて その旅行記(中央公論社の世界の旅第10巻「日本の発見」所収)を読んだのですね、 これは私の鉄道趣味にきわめて大きなインパクトを与えた旅行記で、 一筆書きでルートがダブらない限り どんなに長くても片道の切符が買えるということもこの本を読んで初めて知ったです。 まさに私の国鉄完乗の一つのきっかけになったものです。 (座談会の「完乗を思い立ったきっかけ」の私の答えに追加させて下さい)
今回この本(その後古本屋で購入)にあらためて目を通してみて意外な発見をしました。 東大旅研の参加者4名の中に経済学部3年の鷲尾悦也さんという人がいるのです。 年次から言って彼は、新日鉄出身の連合事務局長鷲尾悦也氏に間違いないと思います。 連合事務局長は「鉄」だったのですね。
完乗の基準あたりから、 座談会の議論も盛り上がってきましたね。 司会者の問いは、第一に完乗の対象は何か、 第二にその対象をどのように乗ったら完乗とみなすかという二つの質問を含んでいますが、 ここでは最初の質問に絞って私の考えを述べます。
M.SさんとH4さんのモノレールの議論について言えば、 私はH4さんと同意見で、 上野動物園のモノレールは含み、小山遊園地のモノレールは除くという考えです。 「上野の場合は事業者が東京都交通局だから」は立派な理由だと思いますが、 もう一歩進めて、 「上野は、東京都交通局が鉄道事業法に基づく鉄道(懸垂式鉄道)として営業しているから」 と言ってほしかったです。 社会科学の目で鉄道を研究するというのがうたい文句の一橋鉄研なのだから。
学生時代に国鉄完乗を達成し、現在は、民鉄を含めた日本の鉄道完乗を老後の楽しみとして 残しながらボチボチやっているところなのですが、 その対象範囲としては、官僚的と非難されるかもしれないが、 「鉄道事業法または軌道法に基づく鉄道または軌道で、定期旅客営業を行っているもの」 と考えているのです。 具体的には、運輸省鉄道局監修の「鉄道要覧」に記載されている鉄道および軌道です。
モノレールや各種新交通システムはともかく、 ケーブルカーとトロリーバスを鉄道に含めるのは、私も抵抗がありました。 たしかK.Tが現役の頃『LOCOMOTIVE』で、 彼が完乗の対象とするのは、なんらかの軌道を有し、 車両自体に動力を有するものという趣旨のことを言っていたはずですが、 これがいわゆる鉄道のイメージに近いと思います。 しかし最近は、老後の楽しみでやるのだから、 対象を狭く限定することはないと考えが変わってきたのです。 ハイキングをするので、かなりの路線に乗っていることだし。
鉄道事業の体系が複雑になり、 線路の所有者(第一種・第三種業者)か運行者(第二種)の どちらを基準に考えるかという問題も出てきました。 例えば、りんくうタウン〜関西空港間は、 JRと南海が第二種業者として同一の線路 (第三種業者である関西国際空港(株)が所有)を使用して運行していますが、 この区間は両方の列車に乗るべきなのか。 線路は同じでも国鉄からJR、さらに第3セクターへの移管で鉄道の事業者が変わった場合、 改めて乗り直すべきかという問題もあります。 これらについての現在の考えは、どうせ暇を持て余すであろう老後にやるのだから、 ケーブルカーやトロリーバスを対象に含めたのと同様、 共用路線はすべての第二種事業者の列車に乗り (例えば神戸高速鉄道東西線は、阪神、阪急、山陽がそれぞれ運行する列車で全該当区間を乗車)、 JRや第三セクターに変わった路線も乗り直すというものです。
学生時代に国鉄完乗を最優先で行ったため、 当時続々廃線になった中小私鉄のほとんどに乗っていなかったことを大変悔やんでいます。 老後の楽しみだから急ぐ話ではないとはいえ、 廃止されそうな路線はできるだけその前に乗っておこうと思っていますが、 子供たちがもう少し大きくなるまでこれが許されるかが問題です。
国鉄完乗に限っていた学生時代は、 対象を「定期旅客営業を行い、営業キロを有するすべての路線」としていました。 これ以外の路線は、可能な限り乗ることが望ましいが、 乗っていなくても国鉄完乗は達成されたことにするという扱いです。 ノートの左側に対象路線を記し、右に乗車日、乗車区間を記録していくやり方で、 乗車線区の伸びを楽しみながら管理していました。
完乗の対象路線は、新線開業、廃止、線路の付け替えによる改キロなどで常々変化しています。 完乗を思い立った時点と達成した時点で、 対象路線とキロが全く同じだったという人はいないでしょう。 新線はともかく、路線変更区間をどう扱うかが問題となりますが、 私の場合、乗車後線路が付け替えられた身延線を乗り直していないことについては、 内心忸怩たるものがあります。
「定期旅客営業を行っていて、独自の営業キロを持たない」路線としては、 既設路線の線増として扱われていた新幹線(JRになってから営業キロをもつようになった)や 東京〜品川間の地下路線、またいくつかの渡り線があります。 これらは、基本的に乗車しています。
また「営業キロを有し、定期旅客列車が走らない」貨物線にも乗ったことがあります。 たとえば、1969年11月16日、横須賀線の電車が走る以前の品鶴貨物線に乗車しました。 日曜日で横浜の実家に帰宅していたのですが、 7時のテレビで「学生デモで東海道線の蒲田付近が不通となり、 旅客列車が品鶴線経由で運転されている」というニュースを見て、 急遽品鶴線経由で国立の寮まで戻ったのです。
東海道線不通の際品鶴線に旅客列車を走らせるのは時々あったようで、 小池滋さんの 「じょっぱり先生の鉄道旅行」にも 小学生時代品鶴線経由の旅客列車に乗ったことが紹介されています。
座談会もご無沙汰してしまいすみません。少し遅れを挽回しましょう。
まず、全線乗車の基準ですが、一言で言えば、 旅客営業をしていていつでも乗車可能な鉄道および軌道(索道を除く)」です。 つまり、モノレールもトロリーバスもケーブルカーも入ります。 対象を決めるとしたら鉄道要覧の路線で時刻表から定期営業線を重ね合わせたものになるでしょう。 それで、短絡線も入りますし、事故不通区間も速やかな乗車が必要になります。 いつ乗るかとかは、前回の『たまこせん』にちょっと考えを記載していますから、ご参照ください。
現在は、小生の年賀状を受け取っていらっしゃる方はよくお分かりだと思いますが、 上野動物園モノレールと十国峠ケーブルカー、 地下鉄半蔵門線神保町〜九段下が、ここ数年来乗り残しています。 この理由はナイショ。 今年も、まもなく立山遠征と、神戸突撃を敢行する予定で、宮崎も多分大丈夫でしょう。 心配なのは、阪和貨物線(短絡線)で、ここを将来も旅客営業するか否かです。 それと、関西国際空港内のシャトルをどうするか悩むところです。 海外では、リヒテンシュタインの全線乗車(約6キロ)は 終わっていますが、そのうち整理してご案内しましょう。 全線乗車のお祝いは矢川駅前にあった焼き肉屋で行いました。 某Y川氏が食いすぎでダウンし、 翌日からの東北乗りつぶし旅行をキャンセルしたという話は鉄研史でも有名でしょう。 ねえ、A.K同志、A.H同志! おごるという話は、確かK.Tさんが「明知まできたメンバーをご馳走した」とかいう文面を、 『たまこせん』か「記録」で見た覚えがあったからで、 このへんはT.Oさんからお話いただければ幸いです。
全線乗車を始めたきっかけについてですが、 80年3月15日に始まった「チャレンジ20000kmキャンペーン」に参加してという方はいませんか。 当時高校生だったOB(84年〜88年頃大学を卒業)には、 駅名標の前で撮影した恥ずかしい写真をいまだにもっている人がいるのでは。 正直に白状しなさい。
白状しなさい!!
#私がいうとものすごい僭越ですね。失礼しました。
私はあのキャンペーンの頃には まだ遠距離を旅するなんていうのは夢のまた夢だったのですが、 一人で旅していたときには、 どうやって駅名標と自分を写したのかっていうのは興味ありますです。 そういえば、種村直樹氏曰く、「高校生の方が活動的」だそうですが、 いかがでしょう、大学に入ってから鉄化した人と、 その前から乗りつぶしていた人の割合はどのようなものなのでしょうか?
はい、持っています。 …って完乗部外者ですが割り込ませていただきます。 私が小学4年生の時にキャンペーンが始まって、翌年から会員でした。
当時「大回り乗車」 (ここでは、東京近郊区間内では乗車経路にかかわらず 最短距離で運賃計算する規則を利用して(逆手にとって?) 初乗り運賃で1日中電車を乗り回す遊びのこと。 私達は「50円旅行」(小人運賃の初乗りが50円だったから)と呼んでいた) の最長記録達成が新聞に載ったりして、 小学5年生だった私も影響を受けて何度も行っていたのですが、 これで踏破した根岸・川越・東金の各線と、 枝線が残って別途乗りに行った 鶴見・相模線の駅名標入り写真を撮ったぐらいでやめてしまいました。
そういえば相模線って枝線あったんですよね。 いま書かなかったら永久に思い出さなかったかもしれない (西寒川支線は妙に気に入ってしまい、廃止当日・廃止後も含め5回訪問しているのですが…)。
遠距離旅行はできなくても、 近いところから乗りつぶしを小学生時代からしていた人というのは 他にもいるのではないのでしょうか? 少なくとも私が小学6年生の時には、 6年3組だけで10人近くはいましたよって私のクラスだけが変なのかもしれませんけど。 私は行きませんでしたが、 その中の何人かは小学校の卒業旅行と称して 飯田線・小海線・飯山線乗りつぶしの旅に出てしまったぐらいですからね。
ただ、私個人に関する環境の特殊性として
ちなみに、私の鉄研在籍年数は小学校・中学校・高校・大学あわせて12年です。 今回は私の個人的な話で終始してしまいました。失礼。
チャレンジ20000km爆弾は、不発に終わったようですね。 あれで完乗していそうな年代が、MLメンバーこはいないのかな。 あのキャンペーン、80年3月15日から、 90年3月14日までの10年間行われることになっていたはずです。 87年には国鉄がなくなってしまったのだから、最後はどうなったのでしょうか。 ところで、小学生も結構参加していたのですね。 私の乗破線区第1号は、御殿場線で、小学6年のときでした。 このときは残念ながら一人旅ではなく、父と弟と一緒でした。
MLには参加されていませんが、 私が大学1年(つまり89年)の5月頃、 Kさん(91年経卒)が「全線踏破賞」(でしたっけ?)を受け取りに 国立駅の駅長室まで行かれたのについていったことがあります。 当時の助役の方とのお話(確か駅長は不在だった)は残念ながらほとんど覚えていませんが、 記念品として立派な機関車の模型をいただき、 Kさんが卒業されるまで下宿の部屋に大切に飾られていたのを覚えています。 記念品はキャンペーン開始当初と同じだったんでしょうかね。
あの年度がキャンペーンの最終年度だったのですね。 というわけで、キャンペーンは当初の予定通り国鉄分割後も続けられて、 一橋鉄研では「チャレンジ20000km」世代の最後の完乗者がKさんということになります。
全線乗車の達成は、なんとか1970年代に終えたかったので、 むりやり1979年12月28日11:40という時間を選びました。 なぜって、公式記録にするには官庁のご用納め(この日の12時でお終い)に間に合わすためでした。 実際は、そんなこと全く影響も、苦情もありませんでした。
その後は国鉄とJRはフォローしてきています。 だいたい、開業1週間以内で、何度防衛してきたか、 わけが分からなくなってきています。 おかげで、突然に会社に休暇取ってでかけるよ、と言ってきたものですから、 社内でも有名人になって、 かえってどこか新線が開通するとか新聞やテレビで報道されると、 「なんだ、まだ行かないのか、何をグズグズしているんだ」と上司以下がやかましいこと。 これは、プラスに働いていると言えます。 (もう、宮崎のことでいつから行くのかと、支社長に急かされています)
ところが、なんとわが社にも全線乗車している奇人(貴人)がおります。 2年後輩の慶応ボーイですが、彼もたいした奴です。 いつ、全線乗車したか忘れましたが、 最近の開業線区は全て1番列車の先頭車運転台かぶりつきという猛者です。 青函トンネル、本四連絡線、山形新幹線、関空と負けました。 しかも、必ずテレビの取材に応じているのが憎いところです。 彼はH君です。
全線乗車をはたから見れば、変人の評あり、はたまたガッツがあるとか、 その実態はつかみかねるものがあります。 ただ、自分へのチャレンジすべきテーマとして、 坂の上の雲のごとき、届きそうでそこまで行けば、また先に逃げていってしまう、 そんな生き方のパートナーなのかもしれません。 そうでなければ、海外まで行って無理してでも1駅乗ろうなんて考えないでしょう。 その辺はちょっと考える時間を下さい。
ところで、遊園地の鉄道論議に戻るのですが、 「上野動物園のモノレールは、鉄道事業法に基づく懸垂式鉄道だから乗車対象」と前に書いたときに、 それでは「小山遊園地のモノレールはなぜ鉄道事業法の対象外なのか」 という疑問については触れませんでした。
小山遊園地のモノレールのことはよく知らないのですが、 たぶんTDLのウェスタンリバ一鉄道と同じように ぐるっと一周して元の駅に戻る路線だと思います。 鉄道法または軌道法の対象は、なんとなく、 不特定多数を対象として二地点間を結ぶ輸送を行っている路線と理解していました。 ところがよくよく考えてみると、 明治村の蒸機列車や旧京都市電、 また梁川町営鉄道(やながわ希望の森公園)の路線も二つの駅を結んでいるのに、 鉄道事業法・軌道法の対象ではないのですね。
鉄道事業法によれば、「鉄道事業」とは、 「他人の需要に応じ、鉄道(軌道法による軌道及び同法が準用される軌道に準ずべきものを除く) による旅客または貨物の運送を行う事業」となっていて、 これだけでは何故明治村や梁川町営が対象にならないのかわかりません。 法律及び施行規則を一通り読んでみたのですが、適用除外の項目も見あたらないようです。 私の読み方が足りないのでしょうか。どなたか教えていただけませんか。 この問題は、私の『たまこせん』原稿にも関連するのです。
同様の質問を別の鉄道メーリングリストでもしてたところ、 次のような回答がありました。
おごりの件、K.Tが明智駅で国鉄完乗を達成したとき、 湘南高校時代の仲間が駆けつけたことは事実です。 それが彼のおごりだったか、皆がお祝いしたのか、 割り勘だったかは、私は行っていないのでわかりません。 『LOCOMOTIVE6号』に彼の記事が載っていると思います。
(1)うーん。いきなり難しい質間ですねえ。 むしろ「失ったもの」の方がすぐ思いつくのですが…。 敢えて言えば、私にとっては、 一見手の届かないような所にあるものでも、 実は「努力」すれば手に入れられるということを、 最初に気付かせてくれたのが「全線完乗」だったような気がします。 高校時代までは、「道内全線」だけで精一杯で、 「全国」なんて夢のまた夢でしたから。 ただここで問題になるのは、勉強とかスポーツと違って、 ただひたすら列車に「乗る」という行為が、どこまで「努力」の対象と言えるか、 ということでしょう。
(2)恥ずかしながら、 まだ海外の鉄道には1キロも…アッ、そうそう、新婚旅行でハワイに行ったとき、 マウイ島のさとうきび列車には乗りました。 目下の目標は、愛人(「あいじん」ではない)の母国の鉄道に乗ることであります。 たとえば北京〜西安とか…ただ当の愛人から反対されていて、なかなか乗れないのです。 せめて(彼女の故郷の)西安のトロリーバスの乗りつぶしでもしようかしらん。
(3)私を「鉄」にした張本人である 高橋英広氏(現札幌市交通局勤務)が、 私より遅れてJR全線を完乗しています(なぜか「師匠」より先に完乗してしまった私って一体…)。 それから私の場合、もう一つの所属鉄研である京大鉄研の方にも多数の完乗者がいます。 一度向こうの後輩が東羽衣でJR全線完乗するのに立ち合ったことがあります。 京大鉄研では完乗者が「おごる」という習慣はないようですが…。 それと「学会」にもその筋の人がたくさんおられます。 詳しくは57年卒の竹内さんに聞かれた方がよいとは思いますが、 「日本交通学会」に入っている人のかなりの部分は「鉄」ですので。 学問上のお付き合いから入って、そちらでも…という「知り合い」は結構います。
⇒もちろんお金や時間もなくしました。 ただこの場合、わたしにとってなくした「お金」とは ただの「ニュメレール(価値基準財)」ではなく「自動車学校に行く金」であり、 「時間」とは「合コン」や他の趣味 (今の私にはほとんど皆無ですが)に費やす時間でありましよう。
でも私が真っ先に思いついたのは、一言でいえば「フロンティア」です。 もちろん、タイトル防衛は一生の課題ですが、 昔、初めて「内地」に足を踏み入れたとき、 あるいは初めて九州や四国に行ったときのような、 「未知の世界」に乗り込むという感動が薄れてしまったのです。 そしていつしか、「鉄道」が自分の安住できる空間であり、 そこから離れると不安に陥る、そんな感覚になってしまいました。 RJ誌あたりで、よく「なぜ日本の鉄道ファンは海外の鉄道に関心がないのか」 という議論がありますが、 その背景には私の様な、日本の鉄道「空間」を熟知するあまり、 その中でしか(!?)自在に行動できない人種が多いことがあるのではないかと思います。
実はこの難間を前に苦悶しています。 まさか、「人格形成に大いに役立ちました」などとは死んでも書けないし。 うーん、しいてあげれば「祭りの後の空虚感」かな。 暗い表現だけど、「達成の充実感」より強かったのは事実です。
海外渡航先はアメリカ以外では、 メキシコ(1時間滞在)と韓国(実質1日滞在)しかありませんので、 国単位での乗りつぶしなど全く考えもしませんでした。 都市単位でみても、 ボストン、ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、BART、 その他チョコマカと乗車体験はありますが、制覇した都市はありません。
残念ながら、鉄研関係以外の「鉄」とのつきあいといえば、 東京ガスのM.O一味くらいしかありません。 最近、地下に潜伏している「鉄」が社内に一人いるらしいとの情報があり、 「隠れ鉄狩り」もしくは「あぶりだし」を実行するかどうか思案中です。
座談会もいよいよ大詰めということで、 あとは皆さん御自由にテーマを設定して議論?して頂きたいと思います。
T.O氏から座談会のことを聞きました。 座談会に参加したくはあるものの、 ネットヘの出席料というか参加料がもったいなくもあり、 投資すべきや否や、と悩んでいたら、 Y4君からこれまでの会話録リストが送られてきました。 またT.O氏から葉書という古典的コミュニケーションデバイスで、 周遊券のことなど話せ、という催促も来ましたので。
わたしが均一周遊券(いまのワイド周遊券)で旅行した最初は一年日の大学受験のあと、 東北周遊券で区域内の「かなりの線」の乗り歩き旅行です。 高校の鉄研の2年生二人が同行しました。 プランニングは私の担当でしたので、 その年末から受験直前にかけては このプランニングや均一周遊券に関する制度の調査に没頭していました。 おかげで大学は見事に落第しました。 この旅行のときには、 まだ川桁からの日本硫黄沼尻や瀬峰からの仙北などが走っていましたが乗りませんでした。 周遊券に大きな出費をしたばかりなので、 さしあたりは「乗るほどに安くなる周遊券の国鉄優先」に傾いてしまいました。 当時としてはしかたのない選択ではあったと思いますが、 現在の私にとっての「ホロ苦い青春の思い出」そのもです。
乗るほどに安くなる、といいましたが、 いくら乗っても金を払う必要がなく、 乗車距離単価が安くなるという意味ではありません。 当時、東北周遊券は二等学割が2780円、一等用が7000円でした。 私達は一等用を選択しました。もちろん一等用は学割は無関係です。 これを持って、一等車運転区間を走る一等車不連結列車に乗ると、 乗車区間の通常の一二等運賃差額のキャッシュバックを着駅で受けることができたからです。 一等不連結急行であれば、急行料金の差額も払い戻しの対象です。 不連結の場合だけでなく、一等満員の場合も、それを理由に二等室に移れば、これも払い戻しです。 私達はこの制度をフルに利用し、 昼問はセッセと一等不連結列車に乗って払い戻しを受け、 これを食べ物にあて、そして夜は青森と郡山あるいは平の間を一等車で熟睡しました。 払い戻しを受けると、周遊券裏面に払い戻し金額などが記入されます。 そしてこの払い戻し金額のリミットは7000円と普通二等周遊券3800円の差額の3200円です。 結局学割よりも1020円は高くつきますが、 それでも払い戻しリミット到達後、 イヤというほど一等車には乗れますので均一周遊券はこの手に限ると思いました。 翌年首尾よく大学に入れて、 サアまた、と思った矢先に均一周遊券のこの運用規則が廃止されてしまいました。
さて、私も一応JR完乗者なのですが(と言っても当然現在はタイトルを剥奪されています)、 座談会のほうにはほとんど参加しなくて、 Y4氏には申し訳ありませんでした。 どうもこのtekken-mlには偉大な先輩方が数多くいらっしゃるため、 私のような未熟者がなにか口を挟むというのはとてもおこがましいことでもありますし…。 (と言いつつ、実は単に書くのが面倒なだけだったりする)。 最近思うのですが、鉄研人のいいところは、「とっても地理に強い」ということです。 あたりまえのことですが、 日本全国の都道府県の名前と県庁所在地を部員全員が漢字で書けるサークルなんて、 はっきり言って鉄研しかありません。 でもってJRを完乗すると、沖縄を別にして、全都道府県をすべて回ることになるわけです。 これは僕にとってとても大きな財産になっています。
「地理に強い」ということは、単に名前に詳しいということだけではなくて、 その土地の文化・風土・気侯などにも関心がいくということを示しているのです。 ただ列車にぼうーっと乗っているだけのように見えて、 実はいろいろなことが見えてきます。 乗客の会話に耳を傾けるだけでも勉強です。 北海道・幌加内の蕎麦畑を見ていると、 ああ、お中元のそばはこんなところで育ったんだなあなんて感傷に浸ることができるのです。 大学というところは色々な所から人が集まってくるので、 その人達と地元ネタで盛り上がれるのも、大きな強みです。 ただ弱点もあります。 私が1年生のとき、クラスの女の子(山形出身)に「山形のどこ出身?」と尋ねたところ、 「ごめんなさい、鉄道は通ってないところなの」と答えられてしまいました。 まあこういうケースもないことはないのですが、 概ねJR完乗の偉業はその後の人生設計に役立つといえましょう。 実際にその土地を訪れてみるということは、百聞は一見にしかずと言う通り、 行くたびに新たな発見があるものです。
私は鉄研で知り合った人達のふるさとを訪ねるのが趣味だったりするのですが、 やはり行く前と行った後では、その人の印象がだいぶ変わってくるような気がするのです。 旅は人に対する接しかたまでにも影響を与えるものなのです。 完乗はそれ自体が自己目的化してしまいかねないものだけれども、 けっこう形だけでも「やってみる」というのは それなりに意義のあることのような気がするんですが…。 いかがでしょうか?
> 完乗して良かったことや、
白い目で見られるようなことがありましたか。
> また、マスコミからの取材はありましたか。その反響は如何。
私の時代には完乗は全くポピュラーではなく、きわめて個人的な営みだった。 鉄研でもK.Tや私は異端児でした。 K.Tなどは、全線乗車に支障があるといって、 大学1年の夏休みの北海道旅行に参加しなかったほどです。 春夏の旅行が現地集合現地解散となったのは、 1年春休みの山陰旅行からなのですが、これは私たち完乗派が強く主張したためなのですね。 だから完乗を日指していたのは、知っている限りでは、K.TとIしかいなかった。
完乗が市民権を得たのは、宮脇さんの本が出てからでしょう。 それが、チャレンジ20000kmキャンペーンに結びついて行く。
宮脇さんの本が出た後、それ以前の完乗者がマスコミでも取り上げられるようになりました。 私が日経新聞に取り上げられたのは、 完乗後7年経過した1978年10月の鉄道記念日の朝刊紙面でした。
> 完乗して、得られたもがあれば教えて下さい。
私は「失ったもの」はなかったけれど、 やっていて疑問を感じたことは何度もありました。 『たまこせん』で何度も書いているけれども、 盲腸線のとんぼ返り往復や待ち時間最小の乗り継ぎといった効率的な乗車のための乗車をやっていると、 自分の行為にむなしさを感じるようになりました。
そういう意味では、このような疑問を抑えて、 なんとか卒業式の前日に国鉄完乗を達成したということは、 完乗という行為には一定の努力が必要なのかもしれないと思います。
それではこの辺で座談会を終了させて頂きます。 たくさんの貴重なお話しをどうもありがとうございました。